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釣りの夢をよく見る。
釣り仲間たちに聞いてみると、やはり同様に見るらしい。
人により頻度は様々だろうが、ではまったく見ない人がいるのかというと、釣り師で釣りの夢を見たことがないという人にはお目にかかったことがない。
釣りのシーズン中とシーズンオフでは、シーズンオフに見ることが圧倒的に多いようで、特に初春から早春にかけて頻度が上がるようである。
夢の中身は様々だ。釣りを始めて夢中で通っていた昔と、家庭を持って釣行もままならない今とでは、見る夢もぜんぜん違うようだ。

夢中で通っていた頃によく見た夢は、すごく渓相のいい流れで、他に人はおらず、天気は快晴。ここぞ、という流れにフライを投じると、ズバッとアマゴが景気よく出てくる。しかもプリプリに肥えてコンディション抜群の良型である。もう夢中になってポイントを次々に攻めていく。いずれも期待を裏切ることのない、極上の楽しい時間に埋没する・・・。フッキングの瞬間、「よっしゃあ!」という自分自身の喚声で夢から醒めた、という経験をお持ちの人も少なからずおられることだろう。
こういう夢は、現実の裏返しであったり単純な願望の表れであろうことは容易に想像がつく。
あるいはこれの変形で、すべてが裏目裏目に出てしまってまったくうまくいかず、例えばフライボックスを川に落っことしたり、強風でキャスティングすらままならない、なんてのもある。垂涎の渓相を前にして釣り自体が不可能になる、何ともイヤな夢である。
この場合には、不安や緊張を抱いたまま眠りについて、それがそのまま釣りの舞台を借りて出てきたか、あるいは釣りに行ってこういうことがないようにしなければ、という日頃明確に自覚しない潜在意識が不安や緊張をきっかけに表へ出て来た、という解釈もできるだろう。
良い夢にしろ良くない夢にしろ、釣りの夢を見た次の朝、遠くの山と空を眺めて「そろそろ釣りに行こうかな」などと思いめぐらしたものである。

ところがここ数年、あまり気分の良くない夢を見ることが多くなった。それはいつも同じ場所、同じシチュエーションの同じ内容で、すっかり忘れた頃にまた夢に出てきて、見る度に非常にイヤ〜な気分にさせてくれるのである。
どんな夢かというと、1本の川があり、上流で2つに分かれている。ボクはその合流点に立って、どちらの支流を釣り上がるべきか悩むのだ。一方は見るも険峻な岩肌の山岳渓流で、釣りというよりはハードな沢登りといった趣き。水量はそこそこあり、段々ごとにポイントはあっていかにも良型イワナの釣り場という感じがするのだが、これがサカナがいないのだ。ガクガクする足を叱咤し吹き出る汗を拭って行けども行けども、エメラルドグリーンの水をたたえた壷に不毛のプレゼンテーションを繰り返さなければならず、それでもサカナに出会うのは難しい。

もう一方の支流は、落差はほとんどなく遡行は楽チンなのだが、ずっと上流まで岩盤の上を滑るように水が流れていて、水量もか細く心もとない流れである。そこに棲むのはスレっからしの10cmくらいの小さなヤマメで、非常にシビアな釣りを強いられる割に満足感が非常に少ないのだ。
そしてこれがもっとも不可解なことなのだが、2つの支流の他に釣り場はなく、だから選択肢が他にないのである。

夢の中では、どちらかを選択して釣りをするのではない。2つの支流がそれぞれそういう流れであることを知っているという前提で、どちらを選択すべきか悩みに悩む、内容といえばただそれだけの夢なのである。知っている、というのは、選択に悩む段階で以前に釣り上がったときの経験と記憶が鮮明に蘇るからで、それもどちらも相当に通い込んで熟知している様子なのだ。
合流点に立ちつくし、独り思考の迷路に彷徨いこんでその泥沼から抜け出せず、イヤ〜な脂汗がにじみ出てくるころにようやく、「あ、これはいつものアレだ。ええ〜い早く消えてしまえ、目を醒ませ!」と夢であることに気付いて目を醒ますのだ。目醒めた後もこの夢を見たことを忘れることができず、しばらくは気分がよろしくない。次の朝、遠くの山と空を眺めて「そろそろ釣りに行こうかな」などと思いめぐらす気にはとてもならない。歳を重ねるにつれ、人生の悩みや憂鬱は減るどころがどんどん増えてくるようであるし、その時どきの複雑な心理状態をこの夢は現しているのだろうと思う。

渓に立って流れを見つめているとよく思い出される言葉がある。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたる例なし」
京都洛南の地に庵を結んだ800年前の下鴨神社の禰宜の息子の言である。川のほとりで川面を見ながら思索にふけることでしか得られない哲学の境地というものがあるとするならば、まさしくこれがそうであろう。
「静かなることを学べ」と教唆してくれた340年前の大英帝国の田舎貴族の思索もその表現方法や道具立ては違うものの、同じ境地であったのだろうかと勝手に想像する。

川に立つことでしか得られない何か。ボク自身にとっては、未だに魅力の尽きることがないフライフィッシングという遊びの深淵に、そんな解脱の境地を夢見ているのかもしれない。そして時どきに湧き上がるいかなる悩みや憂鬱をも「ただ春の夜の夢の如し」と受け流して、素知らぬ顔で静かに、そして優雅に、釣りとそれにまつわるあらゆる事象を楽しむ。かくありたい。
だが、それには未だ思索と修行が足りないようである。だから次の春も、その次の春も渓に立たなくてはならない。時どき、イヤな夢に悩まされながら。

 
*ブログを始める以前、本体HPに書いていた散文です。2010年1月にブログに転載しました。

 
 


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